活き

私が今、皆さまにお伝えしているナチュラリゼーションという運動の再学習のプログラムは、「こう意識して、こう操作しよう」「ここが弱いから鍛えよう」であるとか、まず理解ありきというところから始まる意志を持った「働きかけ」から直接的に何かを変えようというようなアプローチとは少し違った視点も必要で、その辺りを言葉にしてお伝えするのが難しいのですが、年末に再読した『<いのち>の自己組織』という本の中で書かれている「活き(はたらき)」という言葉がそれに通ずるところがあるように思います。


その「活き」と「働き」は何が違うのか、その本の中ではこのように定義されています。

「働き」、「働く」には意志があります。以下で私が使う「活き」、「活く」は能動的ですが、意志によるものではありません。 引用元:清水博『<いのち>の自己組織』

私たちの身体が「居場所」だとするとその<いのち>は同時に私たちの意識の及ばないところでも活動する個々の細胞の「はたらき」によっても成り立っている訳ですが、そうしたはたらきを「活き」として区別して考えるところからスタートして共存在していける形を見出していこうという提案なのですね。それは、自己と家族や社会や、地球といった広義の世界との関わり合いをさしての内容でしたが、ナチュラリゼーションにおいて身体や動きと向き合っていく際のあり方とが重なるように感じました。

人間には、おそらく他の生きものたちと異なって、一定の目的意識を自己がもって行う創造行為があります。その場合も、創造する本人がそのことをほとんど自覚していないことが多いのですが、生物進化の場合と同様、暗在的には共創の形がとられていることが必要です。創造の目的意識に従って自己組織化される居場所(創造の舞台)を限定する拘束条件を外在的世界から与えるために、拘束条件をできる限り単純化して明確にすることが必要ですが、創造(共創)そのものは、人間の内在的世界の「じねん(自然)」の活きによって進むために、自己の意志によって何ごとかを思考したり、あるいは操作したりするようにはできません。 引用元:清水博『<いのち>の自己組織』

身体や動きを変えていくということは、「私」だけでできることではなく、そうした意識されない「活き」とも共に「創造」していくことなのだと思うのです。 無論、それがベストであるとか、そうではないアプローチを否定するということではありませんが、原初に戻って運動の再学習をするということは、問題をシンプルにして明らかにしながら、それが自ずと再構築されていく体験であり、自身の身体や生命に対する見方にも少なからず影響を与えるように思いますし、それがそれぞれのダンスに拡がりが生じさせる余白ともなっているというフィードバックをいただく事もよくあります。

「働く」「働きかける」ということだけでなく、それぞれの内に「活き」が「活き始める」ことを待つことができる「場」を、ご縁を戴いている皆さまと共にこれからも創造していきたいと思います。

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